バガボンド



私も青春時代は例に漏れず大山倍達さんを尊敬していまして、その著書は殆ど読破した口でした。
その中で彼が憧れてやまなかった宮本武蔵の話は良く出ていました。
他にも伊藤一刀斎や千葉周作、柳生但馬守宗矩、塚原卜伝などの剣豪にまつわるエピソードは数多かったと記憶しています。
また、吉川英治作「宮本武蔵」は若き日の大山さんが繰り返し読んで涙したと記載されており、いつかは読んでやろうと思ったにも関わらず、何となくとっつき難くて読まず終いでした。

吉川英治先生の国民的大作を基にしたこの「バガボンド」、最初は漫画に毛の生えたレベルで始まったんですが、いまや完全に芸術の域に達した感がありますね。
まず絵が上手い。人相の書き分けも非常に巧みで効果的です。
次にキャラ設定と人物の背景を描くのが上手い。祇園藤次みたいなワルキャラや宍戸梅軒こと辻風黄平のような漫画的キャラを登場させることによって、時代劇にありがちな近寄りにくさ、堅さが消えましたし、敵役であってもほんの数ページの背景説明で彼に親近感を持ててしまう説得力が凄いんです。
しかし何といっても一番凄いと感じるのが佐々木小次郎の描き方。
大胆にも小次郎を聾唖者と設定し、しかも赤ん坊期から描くことにより読み手に小次郎に対する愛着を沸かせることに成功しています。

武蔵はタケゾウ時代から手のつけようの無い野獣で天下無双に憧れ、暴れて仕方無かった時に七宝寺で沢庵坊から諭され、続いて宝蔵院覚禅坊法印胤栄から哲学みたいなものを学び、強さを増していきます。
やがて剣聖:柳生石宗斎に「天下無双とはただの言葉だ」と一蹴され、より哲学チックな生き方をします。
もちろん、真剣勝負を重ねながらの思考なわけですが。
一方、小次郎は生まれつきの聾唖者ですから言葉を持たない。
したがって考えるということは出来ない。
なので剣の世界で大切な「感じる」感覚が研ぎ澄まされていくわけです。
しかも喋れない小次郎の代わりに兄弟子:伊藤一刀斎や敵によって小次郎を語らせる。これが最高に効果的です。
説明に百万語を費やす以上に、生き生きとした小次郎を相手に語らせる手法は見事です。
特に、関が原の戦い見物の後、巨雲と戦うシーンなどは完全に芸術の域だと思います。
哲学的思考を得た野獣:武蔵と、聾唖者ゆえ剣の感覚のみが異常なほど研ぎ澄まされた天才:小次郎の対比が実にいい。

この作品のテーマって色々あるんでしょうが、そのひとつに「覚悟」があるんでしょう。
真剣を持った者同士が対峙する瞬間にはハッタリや虚勢は通用しません。
かつて「仁義なき戦い」と呼ばれた広島代理戦争で有名になった美能幸三さんは若者に「殺し、殺される覚悟があって初めてヤクザになれる」と諭したそうですが、戦中派だけあって真剣の世界に通じる精神世界を持っていますね。

現在のところ27巻までしか読んでいませんが、将来に残る名作であることは間違い無いのではないでしょうか。